エスピーオー 香月淑晴代表取締役社長CEO“アジアを強く意識、会社のDNAに”
2017年09月21日
エスピーオーが創立30周年を迎えた。オリエンタル・シネ・サービス副社長だった香月淑晴氏(=写真)が、同社と、パートナーだったスタジオぴえろの出資を受けて、ビデオ販社として設立したのが1987年3月25日のこと。
30年前はレンタルビデオ市場の形成期。昭和の末期で、アメリカ映画が圧倒的に強く、シネコンも配信もない時代。この30年の間に、映像業界でも多くの会社が生まれ、また消えていった。大手資本の入らない独立系企業のSPOが、創業社長のもと刻んだ歳月は重みがある。
今回、香月氏は激動の30年を振り返りつつ、近年大きな力を注ぐアジアを中心とした海外戦略について重点的に語った。SPOのアジアに向き合う姿は、日本の映像コンテンツ関連企業にとって、グローバル時代における一つの生き方を示している。
SF→アジアのSPOに
――今年3月で30周年の節目を迎えました。この30年というのは、レンタルビデオの歴史とほぼ一致しますね。
香月 日本でビデオソフトの個人向けレンタルが始まったのが1983年4月。その年の9月にワーナー・パイオニアが日本市場に参入したのを契機に、雨後のタケノコのように、ビデオソフトの販売代理店、レンタルショップが次々に誕生しました。そんなレンタルビデオ市場の草創期にSPOを起業しました。この30年、決して順風満帆とは言えません。時代の変化の中で危機に直面することもあり、その都度、独立系企業だからできる領域を常に探しながらチャレンジを続けてきました。
――具体的に、どのような領域、チャレンジをしてきたのでしょう。
香月 例えば、レンタル市場に劇場公開作品が増えて、当社の主力だった未公開作品が売れなくなった時、ニーズの大きかったSFジャンルに特化したこと(92年)。別会社としてK2エンタテインメントを設立し、自社配給を始めたこと(94年)。DVDセル市場が急伸する中、『マカロニウエスタンDVD‐BOX』をイマジカさんと組んで発売してコレクター向けDVD‐BOXの市場を開拓したこと(02年)。価格高騰があって欧米映画からアジア映画にシフトしたこと(03年)。シネコンへのセールスが難しく、東阪に直営館を持ったこと(06年)。こうした中で数多くの失敗もありましたが、ターニングポイントでは必ずヒット作品に恵まれるなどの幸運もあり、何とか30年間やってきたという感覚です。
――かつては「SFのSPO」のイメージが強かったですが、今では「アジアのSPO」が定着しました。
香月 アジアに本格的にシフトするまでは劇場公開・未公開作品を含めた映画コンテンツを中心に扱っていましたが、当時の主戦場であったレンタル市場は非常に競争の激しいものでした。これは、いま考えると当然のこと。当時の日本のパッケージ市場はアジア最大規模のコンテンツ市場でもあり、洋邦メジャー企業が優位でありつつも、規模や国籍を問わず多様なコンテンツの進出が可能であったためでしょう。その中で独立系企業として、資金力やコンテンツの供給などに後ろ盾がないながらも、守りに入ることなく必死でチャレンジする過程でアジアのコンテンツに商機を見出し、それまでの欧米コンテンツからアジアコンテンツへのシフトを決断しました。
――それが、03年に買付け、04年に公開したイ・ビョンホン主演『純愛中毒』ですね。香月 この頃に韓国映画を集中的に見て、そのクオリティの高さに驚かされました。キム・ギドク監督(『悪い男』など)を知ったのもこの時期です。『冬のソナタ』の地上波放送が04年4月に始まり、空前の韓流ブームが到来。05年に当社は日本未公開の韓国映画を一挙上映する『韓流シネマ・フェスティバル』を初開催、32万5千人を動員し大成功を収めました。
――05年 は『私の頭の中の消しゴム』(興収30億円)、『四月の雪』(27.5億円)、『僕の彼女を紹介します』(20億円)などがあって、韓国映画は年間で100億円近い興行市場を形成しました。
香月 韓流ブームがコンテンツ市場や当社の業績に与えた影響は大きく、当社も短期間で売上規模や人員を拡大しました。その反面、その社会現象とも言えるブームによって調達競争は激化し、買付価格は一時的に当初の数十倍にも急騰。さらには為替相場の影響なども重なり当社を取り巻く経営環境は激変しました。その大きなうねりに翻弄される形で様々な経営課題に直面し、経営の舵取りが難しいと思った局面も多々ありました。ただ、アジアコンテンツにシフトし、その市場の荒波に揉まれることによって、アジアの可能性とマーケティング力の重要性をより強く意識することにもなり、現在ではこれらが当社のDNAに刻み込まれていると言っても過言ではありません。
続きは、文化通信ジャーナル2017年9月号に掲載。