博報堂DYミュージック&ピクチャーズ 村田嘉邦社長“映画好調も満足はしていない”
2017年03月27日
ショウゲートと、親会社である博報堂DYメディアパートナーズのエンタテインメントビジネス局が統合して、2015年10月に誕生した博報堂DYミュージック&ピクチャーズ(略称:MaP)。07年に博報堂DYグループに入って以来、最も大きな転換点を迎えた。
この統合を指揮し、現在MaPの社長を務めるのが村田嘉邦氏(=写真)だ。広告会社の本流を二十有余年歩んだ経験をもとに、新たな領域に果敢にチャレンジしている。
主力の映画事業は15年、16年に年間興行収入が大きく伸び、新会社としてまずは順調に滑り出した。だが、村田社長に浮かれた様子はなく、むしろ気を引き締めているようだ。そして、行動力と求心力を発揮して次なるステップへと踏み出さんとする。
ショウゲートからMaPへ――。統合の狙い、現状分析と将来像について村田社長が語る。
博報堂「テレビ局」に23年――村田さんは博報堂の出身ですね。博報堂ではどのような仕事をしてきたのですか。村田 僕は1989年に博報堂に入り、2012年にスポーツ・エンタテインメントビジネス局(スポーツエンタメ局)局長代理になるまで23年間ずっと「テレビ局」にいました。テレビのスポンサー枠のハンドリングを行う部署です。テレビ局の仕事には、スポットというキャンペーン型の商品と番組の提供の2種類あり、僕は後者。主にフジテレビさんとTBSさんを担当しました。もう一つ、広告会社のクライアントが番組をどう買ったらいいか、そのコンサルティングをする「ギョウスイ(業務推進部)」にもいて、それらが半分くらいずつ。これが博報堂における僕のキャリアです。
――23年間も働いたテレビ局を離れるのに、抵抗のようなものもあったのではないですか。
村田 いや、そうでもないんです。フジテレビさんは事業が盛んな局で、今でも続いている「シルク・ドゥ・ソレイユ」は日本でのローンチ(立ち上げ)から担当させてもらいました。このほかにも番組の売り買いのみならずイベントや音楽、文化催事などテレビ領域以外の仕事もいろいろやってきました。ですから、エンタメ領域に来るのも違和感はありませんでした。
――ショウゲートの社長に就任したのが15年4月。以前からスポーツエンタメ局の局長としてショウゲートをみていたわけですよね。
村田 スポーツエンタメ局は、親会社である博報堂DYメディアパートナーズのコンテンツ部門。野球・サッカー・ゴルフといったスポーツと、映画・アニメ・イベントといったエンタメ、この二つを一つの局でまとめていました。13年4月に僕は局長になり、2年後にスポーツとエンタメの2局に分かれた際にエンタメ局長とショウゲートの社長を兼務。半年後の15年10月に兼務していた二つが統合して、現在のMaPになる。「ショウゲート」という名称は、映画やアニメのブランドとして残しました。テレビ局にいた時は映画との関わりはほとんどなく、担当するようになって初めて映画ビジネスのルールを知り結構厳しい商売だと感じました。
――15年4月の社長就任から、間もなく2年です。15年と16年は映画領域が好成績でした。 村田 エンタメ局長を兼務していた最初の半年はMaP設立の準備に忙殺され、MaPができた15年10月が実質的なスタートでした。この2年を振り返れば結果論的には映画が好調でしたが、満足はしていません。実はもっと早く、スポーツエンタメ局の頃に統合するはずが、社内調整に時間がかかり結局15年10月になった。とはいえ現場の人たちには早めに新会社の方向性を伝え、旧ショウゲートとは違うスケール感でやるための準備を求めていたのですが、準備が足りてなかったと思います。
――といいますと。村田 数字はともかくとして、実際の中身、特にこの16年度(16年4月~17年3月)に関していうと、自社の製作・買付作品が非常に少なく、映画の領域においては準備不足でした。『ガールズ&パンツァー 劇場版』(15年11月)や『黒崎くんの言いなりになんてならない』(16年2月)のような、今までの当社のスコアをはるかに超える興行ができた作品があったから良い成績を残すことができましたが、それ以外はあまり目立った活動ができていない。あのような大当たりが毎年出るわけじゃなく、バランスを取った作品が年に何本かきちっとある方が安定的に成長していけます。
続きは、文化通信ジャーナル2017年3月号に掲載。