戸田奈津子氏が映画字幕、英語について語る!
2014年10月14日
英会話デビューは記者会見
会場は六本木アカデミーヒルズ。300人を収容できる広い会場は8割以上が埋まる盛況。女性が8割を占め、20代からシニアまで、幅広い層が2人の話に耳を傾けた。まずはMCから、両氏が英語に触れるきっかけになった出来事について質問が挙がり、菊地氏は「1960年代後半から1970年代に新宿で遊んでいたことがきっかけ」と述べた。当時は立川に米軍の基地があり、菊地氏は新宿まで遊びに来ていた米兵と交流があったという。
「当時僕らはナンパのことをガールハントと言っていたけど、それを米兵に言ったらキョトンとして、『ハントってのは鉄砲で撃ち殺すことだ。英語ではピックアップと言うんだ』と教えてもらった。そういうことの繰り返し」と懐かしそうに振り返り、「彼らと一緒にいることでだいぶ英語にも慣れてきたので、英会話のスクールを作ろうとした。そこで女子大から生徒を募ってきたんだけど、向こうの方が英語ができる(笑)。慌てて外国人の先生を集めて、ネイティブの人に教えてもらう環境を作った。外国人の教師と3年間くらい一緒に過ごして、ここで英語が身についた」という。
一方の戸田氏は「私は戦争経験者。1945年、小学校の低学年の時に終戦を迎えた。戦時中は敵国の映画は観られなかったけど、2~3年経ってから、マッカーサーの指示で日本にも洋画が入ってくるようになったの。ちょうど文化的にも飢えていた時期。スクリーンに映る別世界を観て、カルチャーショックを受けた。そこでいっぺんに映画を好きになった。興味があったのはあくまで映画で、最初は英語なんてどうでも良かった(笑)」という。意外にも、戸田氏が英語を話せるようになるにはそこから長い年月を要する。学生時代は人並みに英語を学んでいたが、大学で映画字幕に興味を持つようになり、翻訳家を目指すようになる。しかし、当時は字幕翻訳の仕事で生計を立てられる人の数はひと握り。男の世界でもあったことから、若い女性の戸田氏にチャンスが巡ってくることはなかった。
転機となったのは30歳を過ぎてからだ。「映画会社で、タイプライターのアルバイトとして雇ってもらったんだけど、ある日、外国から俳優が来るのに、社内の誰も英語がわからない。そこで、当時宣伝部長だった水野晴郎さんから、『きみ、タイプ打てるなら英語を話せるね?』と対応を任されてしまった。でも、私は英語をしゃべったこともないし、外国に行ったこともない。文字でしか勉強してないのに…。結局、無理やり記者会見に出席させられた(笑)。だから、私の最初の英会話は記者会見! もちろんしゃべれないし、メタメタでがっかりした。でも、不思議とクビにならなかったの。それどころか、1年後ぐらいに俳優が来日する時、また『やれ』と言われて。前回がダメだったのに、『あれでいいから』と。実は、私を助けたのは映画の知識。英語はわからないけど、映画を知っていたことが助けになった。英語の翻訳は、英語を知っているだけじゃ務まらない。日本語もできないとダメだし、専門的な知識も必要」と衝撃的な英語デビューも交えながら、自身の考えを述べた。
ロビン、ブラピの裏話 今年78歳になった戸田氏だが、前日にアメリカから帰国したばかりでトークショーに登場するハードスケジュールをこなす。実は、サンフランシスコで故ロビン・ウィリアムズさんの追悼会が行われ、そこに出席していたのだという。
「親しい俳優だったので、(訃報は)大ショックだった。けど、そこはロビン。日本だと『偲ぶ会』だろうけど、彼のイベントはセレブレーションだった。マスコミに通知せずに内々で行われたものだったけど、それでも1000人以上が入れる劇場で、ビリー・クリスタルが司会を務めるという華やかなものだった。ウーピー・ゴールドバーグやベン・スティラーがスピーチして、最後にスティーヴィー・ワンダーが歌を唄う。みんな最初は爆笑だけど、最後は声が詰まって泣いてしまう。笑いと涙のひとときだった」と盛大な催しを振り返った。ロビンとの思い出を聞かれると「とにかく頭の回転が早い人。ユーモアはプロ中のプロ。日本とアメリカのユーモアの違いも理解していて、『この話は理解されないな』と思うと、すぐに話題を切り替える。当時横綱だった曙のジェスチャーをしたり、お坊さんのお経の真似をしたり…。それを即興で考えてしまう天才だった」と語った。(
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