【大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.142】
「R100」、松本人志の映画を擁護する
2013年10月09日
1週空けると、映画興行は大きく様変わりしているのがわかる。たかが1週で、これである。話題の新作が相次ぐと、公開中の作品情報がどんどん消費されていく運命をたどる。興行もまた、消費の速度を速めている。
先週、松本人志監督の「R100」が登場した。10月5、6日の2日間で、全国動員3万7983人・興収5282万3200円を記録した。見てのとおり、厳しいスタートと言っていい。
松本映画(と、言ってしまう)は、本作で4本目である。「大日本人」(2007年6月2日公開、最終興収11億6千万円)、「しんぼる」(2009年9月12日、5億円)、「さや侍」(2011年6月11日、6億3千万円)ときて、「R100」の登場となった。
興行云々を超えて今回、松本映画に対して、妙な誤解がはびこっているのではないかということを指摘しておきたい。整合性ある映画は、彼には無理であり、それを期待するほうがおかしい。整合性とは何か。理解ができる映画のことである。彼の作品に、一般的な意味における理解を求めるほうが間違いなのである。
松本人志に、“ちゃんとした”プロデューサーをつけろという意見もあろうが、だから、それも間違いということになる。整合性を見つけるプロデューサーがついたら、松本映画ではなくなる。今後、その方向性(整合性)もないことはないが、その際には全く別様の映画の製作の“仕掛け”が必要になる。可能性として、それもあり得ることは否定しない。
松本映画は、全くもって稀有である。確かにその才能も、2、3作目で終わりかと思ったのも事実だ。だが、「大日本人」をその年の邦画のベストワンにした私にすれば、「R100」で“復活”したと判断できた。
彼の映画は、彼の頭のなかのイメージから生まれる。あきらかに、そこが起点となり、そこに映画の核心部分がある。それを面白がるか、面白がらないか。残念ながら、面白がらない人が増えたのである。
だが、こうした映画のありようが、今の時代に“実現”していることの異様さに対して、人はあまりに鈍感過ぎないか。異様さもまた、映画の“誇り”なのである。そこを確信的についてくる作品に対して、人々の対応は、あまりにまっとう過ぎると、私は思う。
映画は、一人の人間の頭のなかのイメージの連鎖が、中心軸をもつ作品もある。イメージだから、賛否というより、そこに入れ込めない人も多くなる。当たり前である。だから、そこで興行の厳しい裁断が下され、整合性がすぐに言われる。映画の批判、興行の批判が、そこから動き始める。
厳しい興行に対して、その作品のありようを、もったいないと思うか。否、当然とあっさり否定しまうか。私は、大いにもったいないと思う人間である。
(大高宏雄)