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クリエイターズ★インタビュー:榎本憲男監督

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クリエイターズ★インタビュー:榎本憲男監督

2011年04月30日

 この世界を生きる気分とか感覚を映画で表現したかった!
  監督デビュー作「見えないほどの遠くの空を」、6月11日公開

 劇場支配人、番組編成、プロデューサー、そして脚本家というキャリアを持つ人物の映画初監督作品が、6月11日(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷他で公開される。榎本憲男監督の「見えないほどの遠くの空を」だ。インディペンデントの超低予算映画ながら、「映画として面白いものを作りたかった」と言うように、よくある青春映画とは異なり、“映画的な表現法”を独自のストーリー展開に織り込んで、映画の新たな可能性を拡げようと試みている。昨年、東京テアトルを退職し、本作で遂に監督デビューを果たした榎本監督に、本作への想いや製作秘話、日本映画の現状などについて聞いた―。(インタビュー:和田隆)


 ―脚本と共に監督を手掛けられた率直な感想を聞かせて下さい。

榎本監督
 監督というのは楽しいですね、それはもう! そうか、みんなこの味を占めてやめられないのかというのはよくわかりました。シナリオにはシナリオを書く面白さがあり、プロデューサーはプロデューサーとしての苦楽はありますが、監督は特別ですね。


 ―昨年、東京テアトルを退社したのは監督するためだったのですか?

P1160708.jpg榎本監督
 最初は休暇を取って中編を撮ろうと思っていましたが、映画監督をするとなると、そうとうな時間を投入しなければならないので、サラリーマンをやりながらだと撮れないという実状もわかってきました。と同時に、会社の中での仕事も変質してきて、すっぱり辞めて一本撮ってみたいという気持ちが抑えがたくなりました。本当は今までやってきたのはプロデューサーなので、フリーとしてのプロデューサーの地盤も固めなくてはいけなかったんですけど、いま商業映画を、ローバジェットとはいえ、成立させるとなると制作に入れるのはいつになるのかわからない。だったらマイクロ・バジェットで自分で撮って、この道が果たしてもうちょっと大きなマーケットにつながっているのかどうか、というのをちょっと手探りで自分でやってみたかったという感じです。

 理由はさらに3つあって、一つはデジタルカメラが良くなってきた時期とも重なり、かなり安く買えるようになったきたということ。RED ONEというカメラが出てきた時に、『チェ』とか『第9地区』なんかを見て、これらがこのデジタルカメラで撮られていることを知って、これならデジタルで撮ってもいいなと思ったのが一つ。もう一つは、生徒に対する僕なりの回答をしたかったということです。僕はENBUゼミナールという学校で教えています。オリジナルストーリーを書けというと、学生は『見えないほどの遠くの空を』のような設定をよく書くわけですよ。なんとなく、ユルい連帯感で繋がっているサークルがあって、その仲間の誰かが死んで、みんなで痛みを分かち合うみたいな。当然そういうヌルい話にはダメ出しするんですけど、じゃあどういう風に直してやればいいのかを自分なりによく考えてました。そうした結果、出来たストーリーであるとも言えます。本作を見て頂いたらわかると思いますが、僕はそういう題材を書くことを否定しているわけではありません。むしろ、若い世代のテーマとしては当然向かっていくべきテーマです。けれど、面白くないんですよ。もう少し面白くならないかというのがあったんです。3つ目は、社会がどんどん閉塞感に陥った時に、映画の表現というものがこれでいいのかと。それで監督として自分で撮ってみたかったんです。


 ―これまでの経歴は役立ちましたか、それとも全く異なる視点が生まれたりしたのでしょうか?

榎本監督
 一番役に立ったのは、ある程度脚本の技術があったということ。次に映画ファンであったということですかね。撮影前の段階ではプロデューサーのキャリアとか、劇場勤務の経験とかも役には立ちます。けれど、クリエイターとして役にたったのは、映画を見ていたこと、それと脚本にある程度自信があったと言うことでしょうか。僕は助監督の経験がないし、自主映画での監督経験すらない。監督としては自分に才能があるのかは撮ってみないとわからない。だから準備と勉強でどこまで出来るかということを意識していました。これは蓮見重彦さん(映画評論家)から言わせると、「勉強して撮る奴なんかはダメ、映画の神に撮らされなければダメ」となるらしいのですが(笑)、そこを敢えて準備と勉強とでどこまで出来るか、そういった映画にも存在価値があるということを示したかったんです。


 ―初監督作品へのプレッシャーはなかったですか。

榎本監督
 学校で映画を教えている先生が撮った酷い映画ってのがあるでしょう(笑)。この映画を観て、教わっている学生はどんな気持ちがするんだろうと思ったことがあります。僕が学生だったら「ふざけんな、こんな映画を撮るクソに単位なんかもらいたくない!」と思うんじゃないかなと。でも、それは自分にも降りかかってきている問題で、それを思うと怖いですね。生徒が見て、「なんだよ、この程度かよ」と思うんじゃないかと。でも、そういう恐れを乗り越えてトライしたかった。「どうだ、見てみろ!」と言ってみたい気持ちももあったので、恐れと不遜の両方があります。


 ―超低予算ということですが、総製作費はどれくらいだったのですか。

榎本監督
 いわゆる劇場用の低予算と言われる1000万円には程遠い、その半分にもぜんぜん満たないような現場予算で、宣伝費はチラシとホームページを作って試写を何回か回すだけ。チラシだって色校なんか出ませんよ。インターネット入校です。前売り券なんか50枚を束にして糊づけするじゃないですか。その糊代が出ない(笑)。気にいって頂いたジャーナリズムのタダパブとTwitterのつぶやきに頼るしかない、といえば大体想像つくでしょう。


 ―出資はどのような経緯で集まったのですか。

miesora_02.jpg榎本監督
 森岡(龍/写真右)くんが主演として欲しかったので、まずブレスさんに相談に行きました。ブレスの狩野(善則)社長はタレントマネージメントオフィスを経営する傍ら、マイクロ・バジェットの映画をプロデュースされています。まずはブレスさんが出資すると言ってくれて、宣伝のアートワークを作ってもらうという条件でコミュニティアドさんをブレスさんが誘ってくれた。残りは自分でかき集めてきました。実質的には個人出資が多いですね。あとは僕も個人的に出資して、のこりは友人、知人とかに頼みこみました。これはカンパ的な意味合いの強い出資です。お金じゃないけれど、打ち合わせの場所を提供してくれた会社もありました。


 ―撮影は予定通りに収まったのですか。

miesora_03.jpg榎本監督
 カメラが回っていた期間は2週間。そのうち2日は撮休。準備期間を入れると、オールスタッフが2週間くらい前から始まって、リハーサルは予算のわりには結構な日数をやりました。4日くらいかな。現場まで森岡と岡本(奈月/写真左)を連れて行って、カメラ回さないで芝居だけその場でつけるという現地リハもやりました。マイクロ・バジェットで映画を作っている経験が多い編集の石川真吾に言わせると、この予算を考えるとものすごく慎重な作り方だったらしい。絵コンテも全部書いて、それを全部スタッフに配って、カッティングの確認とか、ロケ現場の図面を描いてカメラ位置はこことか、役者がこういう風に動いてというようなことまで配布しながら経験値の少ないスタッフの意思統一を図りました。日によっては、絵コンテをさらにバラバラにして、ショットリストを作って撮る順番に並べ替えたりしたんですけど、スタッフが少なくてみんなテンパッテるので、ちゃんと読んでなかったりしたのは想定外でした(笑)。スタッフもそんなに熟練の人たちではなかったのでね。


 ―そういった意味では、逆に自分の思うようにやれたのでは。

榎本監督
 両方あって、監督がアマチュアの場合、一応映画の形にするために、ベテランのスタッフがありきたりで安全な方向に演出を導いてしまうことがあると聞いていたんですが、僕の現場にはそんなベテランはいないので(笑)、それはなかったですね。逆にいうと、スタッフが心強いという安心感もない。撮影体全体を素人の僕が引っ張っていかなければいけないというしんどさはありました。また、実質的には僕がプロデューサーのようなものなので、少し引いたところから作品を見つめてくれるプロデューサーの視点が欠如してしまっています。この状態では作品の客観的なチェックが難しい。けれど、総合的に言うと今回の体勢は正解だったと思います。


 ―インディペンデント映画制作のいい点、悪い点は?

榎本監督
 インディペンデント映画を、マイクロ・バジェットで撮る監督主導の“非制作委員会的な映画”ととりあえず定義してお答えしますね。一つは、クリエイティブ面であれこれノイズが入らないことです。製作委員会システムでは、シナリオと編集とキャスティングでとかく意見が出ます。製作委員会システムというのは出資者が出資比率に按分して、単なる受益権ではなくて、著作権を持つというプロダクションの方法です。そうすると、みんな自分の立場から何か言うわけです。そして時には、映画にとってどうなんだみたいな意見まで出てくるわけです。けれど、著作権者であるからには、そのような意見もそう簡単には無視できないという問題があります。今回一番嬉しかったのは、シナリオをあんまり勉強してない人にシナリオについてあれこれ言われることがなかったこと。編集の段階でも製作委員会のメンバーには一切見せなかった。見せろとも言われなかったし。ブレスの狩野社長には「一度ご覧になりますか」と言ったら「見てもわからないからいいですよ。完成したものを見る方が楽しいし」と言われました(笑)。「これから撮ります」と言って撮る。「出来ました」と言って見てもらう。こういうシンプルな形で製作できたことはよかったです。

 悪い点は、いくらなんでも少ないよっていうくらい製作費が少ないこと。ここまで少ないと、低予算であることを前提に脚本のアイデアをひねり出さなければいけなかった。脚本を書くにも制約が生じるんですよね。どの映画もそうですが、ちょっと尋常じゃないくらいに制約が多いという貧困問題があります。この状態は何回も続くと辛いですね。脚本だけじゃなくて、演出も当然制限されます。撮影プランを話すと「そんな長いトラック撮影は無理です」「レンズがありません」と言われたりしました。また、シナリオも低予算を意識して書いているので、演出的にはやっていないことが沢山ある。車のシーン、アクション、ラブシーンも撮ってないし、撮っていないことだらけで、そういったことをやろうと思うといくらなんでももうちょっと制作資金が必要ですね、少なくとも僕の場合は。


 ―プレスで語っているように、「インディペンデントで映画ならではの、赤裸々な気持ちが横溢するような、面白い映画を成立させること」はできましたか?

榎本監督
 反省点はいっぱいありますが、まあ一応できたのではないでしょうか。それなりに気持ちは届いているかなという手応えはあるような気がしてきました。ただ、それは公開するまではちゃんとはわからない。映画は、初号試写の段階では、一緒に作ってきた技術スタッフは自分の技術だけを見ていたりするから、素朴に映画って見られなくなってしまっています。関係者だっていろんな思惑の中で見てる。宣伝は「これは古参の評論家には受けないな」とか、劇場関係者は「これは昼興行無理だな、レイトだな」なんてマーケッティングの視点で映画を見ているので、素朴な感想に出会えるのはもうちょっと後になると思います。その間は作った側は宙ぶらりんの状態に置かれる。マスコミ試写ではなるべく自分の学生とかも呼び込んだりもしているんですけど、そういった人の反応を見ていると、あるパーセンテージで感動してくれる映画にはなったらしいというのがようやくわかってきました。3回目の試写が終わったあたりから、いいねと言ってくれる人がある程度いる映画にはなったかなと思えるようになったかなと。 (2ページ目につづく)

P1160711.jpg 
【プロフィール】

 1987年銀座テアトル西友(現・銀座テアトルシネマ)オープニングスタッフとして映画のキャリアを始める。1988年同劇場支配人。シナリオを学び1991年ATG脚本賞特別奨励賞受賞。その後荒井晴彦に師事。1995年テアトル新宿の支配人に就任。日本のインディペンデント映画を積極的に上映しつつ、荒井晴彦監督『身も心も』(96)をプロデュース。98年より東京テアトル番組編成を経てプロデューサーとなる。ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督『1980』(03)、『罪とか罰とか』(09)、井口奈己監督『犬猫』(04)、山田あかね監督『すべては海になる』(09)、などをプロデュース。最新作は、深田晃司監督『歓待』(コ・エグゼクティブプロデューサー)が本年公開を控えている。
 脚本家としてはEN名義にて小松隆志監督『ワイルド・フラワーズ』(04)、筒井武文監督『オーバードライヴ』(04)、深川栄洋監督『アイランドタイムズ』(07)、を執筆。2010年、東京テアトルを退職。本作品にて監督デビューを果たした。



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