『奇麗な、悪』©2024 チームオクヤマ
北野武、竹中直人を映画監督デビューさせるなど言わずと知れた名プロデューサー、奥山和由氏がおよそ30年ぶりにメガホンをとった。2月21日より公開中の監督作『奇麗な、悪』は、中村文則の短編小説「火」を原作に、瀧内公美演じる女性が誰もいなくなった精神科医の館でただ独り、虚空に向かって自らの半生を語り続ける姿を映し続ける。氏の手掛ける作品は、プロデュース作であれば、活劇・スペクタクルの色が濃い一方で、監督作となれば、実験的野心に富み、その意味でも観る者を驚かせる。『RAMPO』奥山和由版(1994年)以来、2本目の監督作(劇映画)にして齢70における初の自主映画。「氏を突き動かしたものは何か」。この一問に対して、これまでプロデューサーとして挑み続けてきたこと、映画界に覚える違和感、そしてメガホンをとった理由含めて多岐にわたり淀みなく語る。(取材・文:島村卓弥)
■才能の芽を摘まない業界のために
奥山和由 映画と関わり始めた原点に、ATGの映画群があった。いわゆる、キネマ旬報を読み、ATGを観るという映画小僧として、映画を好きになっていった。
監督を志して映画界に足を踏み入れ、はじめは助監督として斎藤耕一監督の現場に入った。今でも、業界の問題点は形を変えてあるけれど、当時も「これじゃぁ日本映画をまともに作ることはできない」という想いを、映画会社やプロデューサーの機能不全を目の当たりにして抱いた。助監督として付いた斎藤耕一監督の『季節風』(1977年公開)は、音楽映画であったけれど、音楽に予算を寄せることができないなど、予算の配分の仕方からして変だった。それをプロデューサーではなく、会社の上の人間が決めていた。こうした業界は一度破壊しないことには、生き生きとした制作なんかはできやしないし、才能なんて言葉は形だけはみんなが語るけれど、実際にはその芽を摘む状態になると危惧した。本当は監督になりたかったけれど、組織、しかも中枢になるべく早く入り、操縦桿を握らなければいけないと思った。監督になるのはその後だと。
御存知の通り僕は松竹に居たけれど、中枢に入っていけば入っていくほどに、業界の矛盾点は強く感じられるようになった。北野武や竹中直人らを監督デビューさせる際にも猛反発を受けながら着地したのだが、そうした(氏による挑戦の)連鎖は、どこから生まれてきたかを考えてみると、世間と日本映画が乖離しているところを、結び付けていく作業でもあった。映画をヒットさせることができる強い名前を持つ人たちと組んでいかないことには、この業界は改革できないと思った。そして、岡田茂さん(東映)ともコミットし、『ハチ公物語』(1987年公開/興収50億円)をやった。「志はあるけれど、あたっていないじゃない」と言われることを、ひっくり返す必要があり、犬の映画をやった。当時画期的だったのは、この業界は外と組むことがほとんどゼロだったけれど、東急グループと組み、駅の改札口を媒体化し、売る専門の商社の三井物産とも組み、映画をあてることを目指した。それからすぐに三菱商事とも組むことになり、同じく犬の映画『マリリンに逢いたい』(1988年公開/配収11億円)に繋がった。
結局は映画界だけではなくて、日本全体が既成概念や既得権益に縛られている世界であるから、日本映画の歴史を紡いでいくことはなおさら困難であるように思われたし、この構造改革は徹底したものでなければならないという想いが高まっていった。そんな想いが、ロバート・デ・ニーロと取り組んだファンド(を通した映画)づくりに繋がり、デ・ニーロとはヘミングウェイの短編小説「殺し屋」を原作に、北野武の監督・主演作を作ろうと盛んに話し合っていた。しかし、そんな話をしているうちに、これも御存知の通りだが、松竹を去ることになった(1998年)。
奥山和由監督■人が好きだから映画を作ってきた
紆余曲折あり、ナムコ、東北新社、吉本興業のお世話になり、幸いにして映画制作において本当に作れなくなるほどの不自由さは感じることなく、ここまで来させてもらった。吉本興業に居る間、映画祭を通した映画づくりを進めるなかで、自分自身の映画づくりと距離が出てきた実感が膨らんだ。吉本興業の方針や映画界全体の問題などとは関係がなく、自分の意志の強さや軸のぶれなさ加減などがなくなってきていることを感じるようになった。映画を作る志はあるものの、どうしてもそれをやりたいからやる、といったパッションの弱さが、フラストレーションとして溜まっていた。
ちょうどそうした時期に、大﨑洋さんが吉本興業を離れることになり、僕も大﨑さんに誘ってもらって吉本興業に入ったことだから、出ることになった。どこにも縛られない立場からふと見渡してみた時、現状の映画界を捉えてみれば、アニメーションが圧倒的に強く、人気のある俳優・人気のある原作で映画を作るために製作委員会を組成し、その神輿をみんなで担ぐという方程式が鉄板になっていた。オリジナルを作ることはなかなか難しく、かつて自分が好んできたような映画に出会うことはできなくなっていた。かと言って、いくつもの要素があってのことだから、簡単にこうすれば良いという結論も出ないまま、AIが映画を作れる時代になった。
自らの原点に立ち戻って考えてみると、人が好きだから映画を作って来た。スクリーンで観るものは非常に複雑で、時に不条理な要素を孕んでいるけれども、だからこそ魅力的な人間像がそこには映っている。
AIの時代が到来した片方で、コロナの季節がやってきて、人と人との間に距離感が生まれた。今は、1億総精神病とも言える時代だと僕は思う。躁うつ病であったり、何とか症候群であったり、なんでもかんでも分類して、薬を飲む。『どうすればよかったか?』ではないけれど、人間の根本(の病のようなもの)は全く解決していない気がする。こうした時代を前に、人が人として魅力的で居たいと思わせてくれる、理屈をすべて超越したところで勇気づけられる映画を作ることはできないかと感じていった。
たまたま、三島由紀夫の小説「音楽」を読んだ。これが凄く面白い精神科医の物語で、カウンセリングがまだ怪しげな商売と呼ばれている時代の話。この「音楽」では、カウンセリングで色々と患者に聴いていく目的が恋愛感情になり、やがて、誰よりもあなたの近くに居たいということになっていく。カウンセリングという職業を何とか映画にできないかと考えた。
『奇麗な、悪』瀧内公美©2024 チームオクヤマ
■「どうしてそうしたのかは分からないけれど」
ハタと思いだしたのが、桃井かおりさんが監督・主演した『火 Hee』(2016年公開)。元々中村文則さんに『銃』(2018年公開)を作る前段で映像化権を頂戴したのが「火」という短編小説だった。「火」を原作に撮った『火 Hee』は、桃井かおりオンステージの映画として面白く観られたけれど、原作とは少々別ものになっていた(から別の形で映画にできるのではないかと奥山氏は考えた)。
「火」を読み直してみると、いくつかのフレーズが気になった。なかでも「(女が語る)どうして私はそうしたのか分からないけれど」というフレーズ。まさに、なんでも病名を決めつけてしまう現代において、どうしてそうするのか分からないというストレスフルに対して苦しんでいる人が、最後にはスッと苦しみから抜けて明るい表情になれる映画ができるのではないかと。読み直した時に、その方向性に向かう構成が小説の段階から非常に上手くできていて、このまんまやれないかなと変なことを考え始めた。
変なことを考えているうちに、「ATGがやっぱり好きだったよな」と思い出して、これ(「火」に書いてあること)を丸暗記して話してくれる人はいないかな、と。この女が肉体を持って、現実に存在するように演じてもらえないか、と。
映画の最後、女に明るい顔をさせることを考えた時、光をちゃんと操れる撮影監督が見つかるか、という不安はあった。凄く好きなMVがあり、それを戸田義久さん(「鎌倉殿の13人」)が撮っていることが分かり、声を掛けてみたら、渡米を控えるなど忙しい方だけれど、積極的だった。聞けば、「『RAMPO』(奥山和由版)を観て、映画界に入りたいと思った」とおっしゃった。ただ、お話をしているうちに、あんまり良い人だから、「こんな無謀なことに巻き込むのもどうか…」とも思い、「何人かにお願いしているうちの一人だから御無理なさらず」と、頼んだのはこちらなのになぜか僕はそう言った。でも翌日、脚本を読んだ戸田さんから長いLINEが届き、事細かに撮りたい画のイメージが綿々と書かれていた。その長いLINEを読み、「どうしても作ろう」と思った。僕がイメージするものと、こんなに合致して想像してくれる人がいたことが嬉しかった。
もう一つ越えなければならなかったのが、演じてくれる人。ワンカットでやりたかったから丸暗記してもらうことが必須だった。何人かホン読みをしていただき瀧内公美さんにお願いした。主演作の『由宇子の天秤』を観て、瀧内さんのモノセクシャルな感じに惹かれていたけれど、ホン読みを通してとても良いさじ加減で性的な部分を表現していただいた。もっとも感心したのは、セリフとセリフの間の情報量がとても多いこと。そこにリアリティを立ち昇らせ、どんなウソ話をしていても聴かせる力があった。
戸田さんと瀧内さんが揃ったところで、実験映画として作りたいといよいよ思うようになった。そこで、周りの接触しているスポンサーたちに、何を作るかは言わないけれど、「ポケットマネーで出していい上限額はいくら?」と聞いていった。「100万円ぐらいかな」と言われたら、「なんとか500万円出ませんか」といったやり取りを何社か繰り返していき、お金を集めた。ただ、現場は、ちゃんと委員会を組んで、ちゃんと計画を立てて、ということではなかったから、泥縄式に進んでいった。まさに自主映画ってこういうことなのだろうなと思い、勉強も含めて70にして初めて自主映画を撮った。
『奇麗な、悪』2月21日より公開中©2024 チームオクヤマ
■本能的に最後ではない
もう一問、「宣材に最後の作品とあるけれど」と尋ねると、「本能的に最後ではないと思う(笑)」と奥山和由氏。映画『奇麗な、悪』は、ナカチカピクチャーズ配給のもと2月21日よりテアトル新宿ほか全国順次公開中。