Q.(香港のメディア)5年前と比べると痩せている気がしますが、健康状態はどうですか?
宮崎 今僕は正確に言うと63.2㎏です。50年前、アニメーターの時は57㎏でした。それが60㎏を超えたのは結婚したせいなんですけど、三度三度飯を食うようになってからです。一時は70㎏を超えました。その頃の自分の写真を見ると、醜いブタのようで辛い。映画を作っていくために体調を整える必要がありますから外食を止めました。朝ご飯をしっかりと食べて、昼は家内の作った弁当を食べて、夜は家で食べますが、ご飯は食べないでおかずだけ食べるようにしました。別にきつくないことがわかったんです。それでこういう体重になったんです。女房の協力のお陰なのか陰謀なのかわかりませんけど、これでいいんだと思っているんです。
僕は最後に57㎏になれて死ねればいいなと思っているんです。健康はいろいろ問題はありますけども、とても心配して下さる方がいて、寄ってたかってなんかやらされますので、仕様がないからそれに従ってやっていこうと思っていますけども、何とかなるんじゃないかと思います。映画を一本作りますとヨレヨレになります。どんどん歩くと体調が整ってくるんですけど、この夏はもの凄く暑くて、上高地行っても暑くて僕は呪われていると思ったんですけど、まだ歩き方が足りないんです。もう少し歩けば、元気になると思います。
Q.「町工場のオヤジ」があえてこの夏ジブリから出している「熱風」を通じて「憲法を変えるなどもってのほか」と発信された理由を改めて聞かせて下さい。また星野社長には、宮崎監督は「日本のディズニー」と称されることもありますが、どう感じていますか。
宮崎 「熱風」から取材を受けまして、自分の考えを率直にしゃべりました。もう少しちゃんと考えてきちんとしゃべれば良かったんですけど、ああいう記事になりました。別に訂正する気も何もありません。それを発信し続けるかと言われると、僕は文化人ではありませんので、その範囲で留めていようと思います。
星野 監督がそう言っているわけでもなく、2008年に実は公の場で同じ質問を外国の特派員にされた時に(宮崎監督は)応えていますが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーでしたが、自分(宮崎監督)にはプロデューサーがいると。ディズニーさんは大変優秀なクリエイターの方々、人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と明確に言っています。私自身もディズニー(ウォルト・ディズニー・ジャパン)には20年近くいましたし、歴史とかを勉強する中で全然違うと感じておりますので、日本のディズニーではないんじゃないかと思います。
Q.あえて(「憲法を変えるなどもってのほか」)発信したのはなぜですか?
宮崎 それは鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったんです。そしたら鈴木さんのところにいろいろネットで脅迫が届くようになったんです。それを聞いて、鈴木さんに冗談ですが「電車に乗るとやばいですよ、ブスッとやられるかもしれないですよ」とかいうのがあって、これで鈴木さんを知らん顔するわけにはいかないから、僕も発言して、高畑監督にもついでに発言してもらって、3人いると的が定まらないだろうと話しました。それが本当のところです。本当に脅迫した人は捕まったらしいです。
アニメには世界の「秘密」があると思える職業
Q.「力を尽くして生きろ、持ち時間は10年だ」という監督の言葉がありますが、監督が振り返ってそう思う10年とはどの10年ですか、その理由を聞かせて欲しいです。また、これからの10年をどういう風な10年になって欲しいと願っていますか。
宮崎 僕の尊敬する作家・堀田善衛さんが、旧約聖書の伝道書についての非常に優れたエッセイをわかりやすくが書いてくれまして、その本はずっと私の手元にあります。10年というのは、僕が考えたことではなくて、38歳くらいに大体限界が来て、そこで死ぬ奴が多いから気をつけろと自分の絵の先生に言われたんです。僕は18歳の頃から絵の修業を始めましたので、そういうことをぼんやりと思ってつい10年といったのですが、実際に監督になる前に、アニメーションには世界の「秘密」があると思える職業なんです。
それが分かった途端に自分の仕事が非常に奥深くて、やるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出やらなければならなくなって段々ややこしくなるんですけども、その10年はなんとなく思い当ります。その時は本当に自分は一生懸命やっていたと思います。これからの10年はあっという間に終わるだろうと思います。だって美術館作ってから10年以上経っているんです。これからはさらに早いだろうと思うんです。
Q.引退のことを奥さんにどのような言葉で伝えたのですか? そして、どのような言葉が返って来たのですか。また、子供たちに「この世は生きるに値する」ということを伝えたかったことが根底にあるかもしれないと言っていましたが、数十年のアニメ制作の中で、「この世」というものの定義も変容したのではないかと思いますが、2013年の今の世の中をどう思っていますか。
宮崎 家内には引退の話を(スタッフに)したと言いました。「お弁当は今後も宜しくお願いします」と言って、「ふんっ」と言われましたけども、常日頃から「この歳になってまだ弁当を作っている人はいない」と言われておりますので、「誠に申し訳ありませんが、宜しくお願いします」と。外食は向かない人間に改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行っていたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄い物を食わされるようになったんですね。
いま「この世は生きるに値する」ことについて質問がありましたが、僕が自分の好きなイギリスの児童文学作家で、もう亡くなっていますが、ロバート・レストールという男がいまして、その人が書いたいくつかの作品の中に本当に自分が考えなければならないことが充満していました。この世は酷いものである、その中でこういうセリフがあって、「君はこの世で生きていくには気立てが良すぎる」、少しも褒め言葉ではないんですが、その言葉には本当に胸を打たれました。僕が発信しているのではなく、僕がいろんなものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか、昔観た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではないんです。繰り返し繰り返し「この世は生きるに値するんだ」という風に言い伝えて死んでいったのではないか。それを僕も受け継いでいるんだという風に思っています。
Q.引退発表の場所とタイミングについて、今回ヴェネチア国際映画祭で発表した理由は?
鈴木 ヴェネチアのコンペへの出品要請はかなり直前だったんですよ。実は、社内で発表し、公式の発表をするというスケジュールは前から決めていたんですけどね、そこに偶然ヴェネチアの話が入って来たんですよ。それで僕と星野で相談して、宮さんは外国に友人が多いじゃないですか、それだったらヴェネチアというところで発表すれば、言葉を選ばなくてはいけないんですけど、一度に発表できると考えたんです。元々、まず発表をして会見をする、その方が混乱が少ないだろうと。当初は東京でするつもりでした、皆さんにFAXその他を送って。ただ、ちょうどヴェネチアが重なったものですから、そこで発表すればいろんな手続きを減らすことが出来るという、ただそれだけのことです。
宮崎 ヴェネチアに出品すると正式に聞いたのは今日が初めてです。もう星野さんが行っているとか、ああそうなんだという感じ。これはプロデューサーの言う通りにするしかありませんでした。
メッセージを込めようと思って映画は作れない
Q.文学者の名前が出てきましたが、その中の富山県出身の堀田善衛先生も好きで学生時代から読んでいると。『風立ちぬ』の中でも「力を尽くせ」という言葉や「生きねば」というメッセージが込められていると思います。改めて、最後の集大成となった『風立ちぬ』に堀田先生から引き継いだメッセージのようなものがあれば、どんな思いを込めて作られたのか教えて欲しいです。
宮崎 自分のメッセージを込めようと思って映画は作れないんですよね。何か自分がこっちでないといけないと思って進んでいくのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識が含まれることはできないんです。その迷いの中に入っていくと大抵ろくでもないところに行くので、自分でよくわからないところに入って行かざるを得ないんです。それが、最後に風呂敷を閉じなければいけませんから映画は、未完で終わるならこんなに楽なことはないんですけど、しかもいくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの秒数が減っていくんですよね。それが実態でして、セリフとして「生きねば」ということがあったからとはいえ、これは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉をどっかでひっぱり出してきて、そのポスターに僕が書いた『風立ちぬ』という字よりも大きく『生きねば』と書いたんです。僕が「生きねば」と叫んでいるように思われていますけど、僕は叫んでおりません。
そういうことも含めて宣伝をどういう風にするか、どういう風に全国に展開していくかというのは鈴木さんの仕事でして、死に物狂いでやっていますから、僕は全部任せるしかありません。というわけで、いつの間にかヴェネチアに人が行っているという。その前になんとか映画祭に高畑監督と出ませんかと言われましたが勘弁してくださいと。ヴェネチアの時は何も聞かれなかったです。
鈴木 コメントを出してますよ、ヴェネチアに対して(笑)。
宮崎 (イタリアの飛行機製作者、ジャンニ・)カプローニの孫がたまたま『紅の豚』(92年)を観てですね、自分の爺様のやっていたカプローニ社の社史、飛行機の図面、わかりやすく構造を書いた本があって、日本に1冊しかないと思いますけど、突然イタリアから送ってきまして、「いるならやるぞ」と書いてありました。有難く頂きますと返事を書きましたが、写真で観た飛行機しか覚えていなかったものの、その構造を観ることができたんです。ちょっと胸を打たれまして、技術水準はアメリカに比べると遥かに原始的なんですが、構築しようとしたものはローマ人が考えていたようなことをやっていると思ったんです。それでカプローニという設計士はルネッサンスの人だと思うと非常に理解できて、つまり経済的基盤がないところで航空会社をやっていくためには、相当はったりもホラも吹かなければいけない。その結果、作った飛行機が航空史の中に残っているというのがわかって、とても好きになりました。
そういうことも今度の映画の引き金になっていますが、溜り溜まったもので出来ているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうと思ったことはありません。ほとんどその突然送られてきた1冊の本とか、そういうものがずいぶん前ですよね、そういう風に蒔かれたものがいつの間にか材料になっていくのだと思います。
Q.堀田善衛について、いろんな作品の中で堀田さんの発信してきた文学の中にあったものを根底に置かれているのかなと富山県の人間としては思っているんですけども、宮崎さんにとって堀田さんはどんな存在なのでしょうか。
宮崎 さっき経済が上り坂になって、それがどん詰まりになって怒っていたとかよくわかっているように言ってましたが、しょっちゅうわからなくなったんです。『紅の豚』をやる前なども世界情勢をどういう風に読むかわからなくなっている時に、堀田さんはそういう時にさっと短いエッセイだけどなんか書いたものが届くんですよ。それは自分がどっかに向かって進んでいるつもりなんだけど、どこへ行くのかわからなくなる時に見るとブレずに、堀田さんは現代の歴史の中に立っていました、見事なもんでした。それで自分の位置がわかることが何度もあったんです。「国家はやがてなくなるから」とか、そういう言葉がその時の自分にとってはどれほどの助けになったかということを思うと、やはり大恩人の一人だと今でも思っています。
もう二度とこういうことはないと思います(笑)
Q.初期の頃の作品は2年とか3年間隔で発表されていましたが、今回は5年ということで年齢によるもの以外に何か創作の試行錯誤ですとか、時間がかかる要因というのはあったのでしょうか。
宮崎 1年間隔で作ったこともあります。最初の『ナウシカ』も『ラピュタ』、『トトロ』、『魔女の宅急便』も、それまで演出やる前に手に入れていた材料が溜まっていまして、出口があったらばっと出てくるというような状態になっていたんです。その後は、さあ何を作るか探さなければいけないという、そういう時代になったからだんだん時間がかかるようになったんだと思いますけどね。
最初の『カリオストロの城』というのは4か月半で作りました。それはそんなに一生懸命やって寝る時間を抑えてでもなんとか持つ、ギリギリまでやることが出来たんですが、スタッフ全体も若くて、それと同時に長編アニメをやる機会は生涯に一回あるかないかみたいな、そういうアニメーターたちの群れがいて非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理なんです。年も取るし所帯もできるし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかみたいなことを言われる人間がどんどん増えていくというね、今度の映画で両方選んだ堀越二郎を描きましたが、これは面当てではありません。
そういうわけでどうしても時間がかかるようになったんです。同時に自分が一日12時間机に向かっていても、14時間机に向かっていても堪えられた状態ではなくなりましたから、実際に机に向かっていた時間は、7時間が限度だったと思うんですね。後は休んでるか、おしゃべりしているか、飯を食っているか。打ち合わせとか、これをああしろこうしろとかいうことは僕にとっては仕事ではないんですよ。それは余計なことで、机に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間取れるかということ。この年齢になるとどうしようもなくなる瞬間が何度も来る。その結果、何をやったかと言いますと、えんぴつをパッと置いたらそのまま帰ってしまう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリつけようというのは一切諦めたんです。やりっぱなしです。放り出したままでやりましたけど、それでも限界ギリギリでしたから、これ以上続けるのは無理だと。じゃあそれを他の人にやらせればいいじゃないかと言うことは、僕の仕事のやり方を理解できない人のやり方ですから、それは聞いても仕方ないんです。そういうことが出来るならとっくの昔にしていますから。
そういうわけで5年かかったと言いますけども、その間にどういう作品をやるかというのは、方針、スタッフを決め、それに向かってシナリオを書くということをやっています。やっていますけど、『風立ちぬ』は5年かかったんです。そういうことから考えますと、この『風立ちぬ』の後、どういう風に生きるかというのは、これはまさに今の日本の問題。この前ある青年が訪ねてきて、「ラストシーンの先には何が待っているのかと思うと本当に恐ろしい想いがした」というビックリするような感想で、それはこの映画を今日の映画として受け入れてくれた証拠だろうと思って、納得しました。そういうところに今僕らはいるのだということだけはよくわかったと思います。
(最後に)
宮崎 こんなに沢山の方が(記者会見に)見えるとは思いませんでした。本当に長い間いろいろお世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので(笑)。(了)