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新藤兼人監督死去で新藤次郎近代映画協会社長記者会見

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新藤兼人監督死去で新藤次郎近代映画協会社長記者会見

2012年06月01日
 昨年公開の「一枚のハガキ」で第24回東京国際映画祭審査員特別賞など様々な映画賞に輝き、今年4月22日に100歳を迎えた映画監督・新藤兼人氏(本名:新藤兼登)が、去る5月29日老衰のため自宅で死去した。

 港区芝公園の増上寺光摂殿で2日(土)通夜、3日(日)(株)近代映画協会・新藤家合同葬で告別式が執り行われるが、それに先立ち新藤監督の次男で喪主を務める新藤次郎(株)近代映画協会社長が新藤監督の思い出や亡くなる経緯について記者会見、大要次の通り語った。

 「4月22日に100歳の誕生会を開き、新藤と一緒に仕事をした仲間たち約200人が集まって祝っていただいたのですが、最近の新藤の体調としてはその日がピークだったんじゃないかと思います。最後に“さよなら”と言って帰りましたから何かそれが本音かなと感じた人も多かったでしょう。その後、体調は波があり、救急車をお願いすることもあり、一旦は持ち直したかなということもありましたが、5月29日の朝、娘の風(かぜ)より連絡があり・・・・。私は間に合わなかったのですが、死に顔は本当に穏やかで苦しまずに天寿をまっとうしたかなと思います」。

――最後の会話は。

 「先週の5月25日(金)です。起きたり、寝たり横たわったり寝言を言ったりという感じでしたが、その寝言の内容は全て映画なのです。娘に聞きましたらどうもアメリカで撮影しているらしいのです。ここは英語と日本語で2回撮るよと言っていたらしいです」。

――100歳まで監督を続けてこられたんですからすごいですね。

 「すごいと思うし、幸福なことだと思います。22歳で映画界に入って78年間、映画のことだけやってきた。特に80歳を過ぎたあたりから好きだった野球や将棋、マージャンという趣味をすべて止めてしまって、映画のことだけ考えたいというライフスタイルをとっていました」。

――プロデューサーを担当していたわけですが「一枚のハガキ」をどう見ましたか。

 「高齢になりいい意味で油がぬけてスタイリッシュになったり、反面、いきよいが無かったりするわけですが、『一枚のハガキ』は新藤が最後の作品という覚悟で作ったもので、本当に自分がいいたいことをすべて盛り込んだ映画なんです。そして常に新しいものを求めていましたので、『一枚』でも随所に“新しさ”がえがかれていたことを思いうかべます」。

――父として監督としてどう思っていますか。

 「日本の映画人としてはものすごく特異な人だと思います。松竹という大きな組織の脚本部に在籍し、年間11~12本の劇映画の脚本を何年にもわたって書いていたのです。それも多作ではなく、代表作もありました。そして松竹を飛び出し独立プロで映画を作るというのは無謀ですね。冷静に考えれば無謀です。近代映画協会は今年で満62になったわけですが、62年間ずっと続けてきたという映画人は、日本ではもう出ないだろうと思います」。

(代表取締役社長:指田 洋)

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