※筆者が映画雑誌「FLIX」(隔月刊)に連載中の「いつかギラギラする日~角川春樹の映画革命~」を、ネットユーザーにも広く読んで戴くべく、角川春樹氏とFLIX編集長のご厚意により、「文化通信.com」に連載第1回分のみ転載することが許諾されました。本コラム番外篇としてお読み戴ければ幸いです。
「いつかギラギラする日~角川春樹の映画革命~」
【第1回 父を超える】 FLIX 2014年10月号(2014.8.21) 取材・文/清水 節
あれから随分長い時が流れた。もはや30代にさえ、あの熱き時代の出来事を何も知らない人々はいるのだろう。斜陽産業と呼ばれることに甘んじていた70年代半ばの日本映画界に現れ、驚天動地の手法で大いなる変革をもたらした異端児がいた。出版という異業種から旧態依然とした映画界に揺さぶりをかけ、若い観客に強く訴えかけた十数年。あれは、旧来のシステムに別れを告げる過渡期ゆえの現象だったのか。いや、間違いなくたった一人の男の狂気と熱情によって、暴力的なまでに巻き起こされた変革の嵐だった。
男の名は、角川春樹。ルーカスやスピルバーグが切り拓く新しいハリウッド映画に胸躍らせると同時に、我々は角川春樹の一挙一動に驚き、反発し、そして楽しんだ。その映画の出来に裏切られることも決して少なくはなかったが、メディアを総動員して浴びせかけられる大量宣伝の中に身を置き、劇場に足を運び、原作本を購読することで、日本人は同時代を生きる感覚を共有した。ネットによって人々が繋がれ、あるいは分断される以前の、巨大な共同幻想。映画・テレビ・出版というマスメディアが絶大なる相乗効果を発揮した、20世紀終盤の煌めきでもあった。
かつて一大イヴェントを仕掛けた角川映画の戦略は「角川商法」と呼ばれ、作品至上主義で映画を捉える人々からの批判に晒されながらも、やがてその手法は、近代化と効率化を余儀なくされる日本映画界のスタンダードになっていった。ただし、関係各社の集合体である製作委員会が陣頭指揮する昨今と異なるのは、全権を握る角川春樹という強烈な個性によって牽引されていたことだ。
角川映画という名称自体は、経営主体が変わって現在も続いているため、若者たちが抱くブランドイメージは全く異なるものになっている。これから語ろうとするものを正確に言い表すならば、「角川春樹映画」だ。その作品群には、今に至る映画製作や宣伝のルーツがあった。さらに言えば、いまや失われつつある野性的な挑戦や創作の情念があった。
70本以上という膨大な数の映画を製作してきた彼の仕事は、十二分に語り尽くされてきただろうか。1993年、角川春樹の「逮捕」によって、ひとつのピリオドが打たれてしまった。映画界における功罪が語られる時期はあった。残された作品は、40~50代のファンによって今なお語り継がれてはいる。しかし、角川春樹その人について語る言葉が少なくなっている事実は否めない。そして何より、彼自身が積極的にメディアに登場しなくなって久しい。
ならば登場して戴こう。熱き時代を創出したパッションを未来へと伝えるために。彼自身の言葉によって、忘れられた日本映画史をひもとく場を設けたい。そんなオファーに、現役の出版人である彼は応えてくれた。長らく「過去に興味はない」と拒んできた重鎮が、重い腰を上げる。これは回顧録ではない。埋もれかけていた正史を再発見する試みである。
* * *
かつて喧伝されたイメージを知っていれば、初対面の者は何らかの畏れを抱くのだろう。しかし、パステル調のファッションに身を包んだ72歳の角川春樹は、穏やかな紳士だった。はにかむようにして見せる笑顔は対峙する者に安心感を与えるが、こちらが問いかければ眼をじっと見据え、真意を読み取ろうとする。偉業を語るときは自分に酔いしれるわけでもなく、時折ユーモアさえ交える。とりわけ数字の話になると慎重を期す。口調が静かになればなるほど、凄味を感じさせもする。それは、酸いも甘いも噛み分けた男の境地がもたらす奥行きなのだろう。
「序章の方が長いですよ。私は突然現れたわけではなく、相当足元を固めてから映画に参入しましたので」
若き日の春樹は、常に角川書店を創業した父・源義への反抗心をみなぎらせていた。文学青年や映画青年ではなかったのかと問うと、「ぜ~んぜん」と笑い飛ばした。
「父が文学青年でしたからね。信じていませんでした。文学青年も演劇青年も映画青年も。私はオリンピックを目指してボクサーになろうとしていたんです。まず喧嘩に勝てばいい、強くなれればいいというね。もちろん、芝居も映画も観てはいた。それはなぜ人が入るのか、なぜ売れているのかを知るためでしたね」
情感よりも勝ち負け。ビジネスとしての映画の確立を旨とした角川商法の原点を思わせる前日譚だ。大学を出て、中小の出版社や出版取次会社で仕事を学んだ春樹は、1965年に23歳で角川書店に入社する。当時の角川書店は、文庫本だけに文芸出版の匂いを残し、教科書や辞典などの学術出版を得意とする堅い出版社だった。編集者には学者や歌人、俳人も少なくなかった。
「私は初め、出版部の製作担当でした。何が売れているのかを察知し、出来るだけ早く重版をかけられるようにシステム化していく作業です。のちに文庫にカヴァーを付けたのも、そんな発想からですね。それまで岩波文庫などはパラフィン紙に包んで出版していた。返品されてきたらパラフィン紙を換えて再出荷する。それでも平置きにしてくれない。店頭でメインの場所に平置きにさせる戦略は、カヴァーを付けるしかないと考え、実験してみると明らかに重版されていくスピードが速かった」
今となっては当然の、文庫本をくるむカヴァーを発明したのは、角川春樹だった。文庫棚がカーキ色一色の地味な存在だった頃、春樹は世界の偉人の伝記本の文庫化を手がける。オールカラーでデザインされた表紙は、文庫のイメージを覆した。製作担当でありながら、発想に富む春樹は、編集業務にまで手を拡げるようになっていく。そして、画期的な本を企画して発刊することになる。
「詩集が、年に1~2回最低部数を重版していることに気づきました。これは仕掛ければビジネスになるんじゃないかと。ただし、今までの詩集の概念を壊さなければいけない。本作りから始めて、『カラー版 世界の詩集』というハイネやランボーらの全集を全12巻で出しました。各巻にソノシートを付けたんです。俳優や声優が朗読する音声を収録し、バックには音楽を流すというスタイルでね。そもそも有名な詩には曲が付いているものもある。原本にカット(挿絵)が付いているものもあった。その詩に歌われた土地の写真だってあるわけです。ない場合は、詩のイメージに合う写真を探してきてカラーページを作っていったんです。当時、詩集は2000~3000部売れればいいんじゃないかという時代でした。それが1冊あたり20~30万部売れた。巻によっては50万部。もう詩集の大ブームになった。まるでガムのように売れていると言われましたよ。活字と写真や絵と音楽を一体化させた戦略は正しいものとして、自分の原点になりましたね」
まさに「読む・観る・聴く」を融合させる発想の勝利だった。第1巻の「ゲーテ詩集」をネットで購入してみた。訳者は手塚富雄、ソノシート朗読は岸田今日子。カラーグラビアは16ページ、巻末には鑑賞ガイドや解説も充実し、計270ページで定価480円。若い読者にはソノシートの説明が必要かもしれない。これは、ビニールなどで作られた薄手のレコードのこと。雑誌の付録や、子供向けテレビ番組の主題歌を収録する手軽な音声媒体として流通していた。奥付の初版発行日は1967年4月10日。若い女性をメインターゲットにしつつ、知的好奇心を満たすゆとりが出てきた高度成長期の家庭の書棚に、百科事典や全集が浸透していった時流にも乗っていたのだ。
それから9年後、1976年に始まる出版×映画×レコードによるメディアミックスの萌芽はここにあった。「世界の詩集」の成功によって春樹は、「別に望んだわけでもないのに」一足飛びに常務に昇格。しかしその数ヶ月後には、ある失敗の責任を取らされることになる。
「ぜひ『日本の詩集』もやってくれということになったんです。私は反対しました。すでに他社から全集が出ていたし、大体『世界の詩集』という発想は、大手には勝てっこないので、著作権が発生しない世界の詩人で勝負するという意図もあったわけです。死後50年間権利がある日本の詩人たちの作品をまとめるのは、時間もかかるなと。そんな背景があったにもかかわらず、『日本の詩集』を出した。売れませんでした」
大量に断裁に回される。会社の資金繰りが悪くなったタイミングに重なったこともあって責任を追及され、常務から平へと降格させられた。
「悶々としてねえ。敗北の形で辞めていくのは悔しかったので、辞表は持っていたけれど出さなかった。窓際に追いやられました。でも私は復讐心が強いですから(笑)。そこで当時の角川書店に何が一番不足しているかと考えたんですよ。やはり翻訳出版が弱いのではないかと。翻訳ものなら安く手に入れて売ることが出来る。しかも映画化されるものを中心にすればいいという発想に辿り着きました。だから仕事を干されている間、英語の勉強をしたんですよ」
作家への印税の支払いも滞り、交際費もままならぬ出版社の活路として、春樹は翻訳出版だけが突破口であると考えた。売れる翻訳ものとは何か。当時それは、洋画公開に合わせて出す映画の原作本、あるいはノヴェライゼーション(映画脚本等を基に小説化した本)に限られていることに気づく。作品を認知させる宣伝費は、基本的に映画配給会社が持ってくれる。春樹が、配給会社や著作権エージェントを訪ね歩くきっかけになった他社の成功例が、1968年6月に日本公開された青春映画のバイブルにしてダスティン・ホフマン主演作『卒業』の原作だ。のちに直木賞作家になる常盤新平が、早川書房の編集者時代に見出し、ベストセラーになった翻訳ものだった。
「早川が『卒業』に払ったアドヴァンス(前払い)は200ドルだったはずです。新書版で出して10万部を突破した。当時これは至難の業ですよ。原作者のチャールズ・ウェッブは脚本家出身でした。自分なりに書いたシナリオを基に小説にした形で、ほとんどが会話体。私だったら文庫本で出すのになあと思いました」
サイモン&ガーファンクルによるテーマ曲「サウンド・オブ・サイレンス」は、映画の2年前に日本で発売されていた。『卒業』で使用されることで改めて注目を浴び、公開に合わせて再リリースされると、オリコン1位になる大ヒットを記録。
「すでに曲は聴いていましたよ。つまりサイモン&ガーファンクルの音楽から入り、マイク・ニコルズ監督の映画を観て、チャールズ・ウェッブの本を読んだ。私が『世界の詩集』でやった発想の延長線上ですよね。映像と活字と音楽の三位一体。このスタイルへの確信が、自分の中に出来上がっていった。同時にこのときすでに、出版社が映画を作るのもありだなと。つまり本を売るために、巨大な宣伝媒体と思えばいいと割り切って考えました。別に名作を作る必要はない。当てれば勝ちだと」
映画の原作やノヴェライゼーションという鉱脈を見出した春樹は、まもなく自ら原石を探り当てる。それは、無名の脚本家エリック・シーガルによる原作本「ラブ・ストーリィ」。シーガルは自分のシナリオを基に、自ら小説化していた。身分差恋愛に加え、難病ものの要素まで取り込んだ典型的な純愛小説だ。全米では1970年2月に出版され、1年間で1200万部のベストセラーになった。原作執筆中にアーサー・ヒラー監督で映画化が進められた本作は、1970年の暮れに全米公開。製作費220万ドルに対して興行収入1億0640万ドルを弾き出し、映画会社パラマウントの窮状を救う未曾有の大ヒットとなった。アカデミー賞には作品賞や脚本賞を始め7部門にノミネートされ、フランシス・レイが作曲賞を受賞。とはいえ、ヴェトナム戦争は泥沼化し、カウンターカルチャーが支持された時勢にあって、本作に勝負を賭けるには勇気が必要だったのではないか。
「いや、ひらめきです。原作をプルーフ(校正刷り)で読んで、わずか250ドルのアドヴァンスで日本語版の版権を買いました。編集会議を経てないんです。親父が認めるはずがないと。これからはフリーセックスになると叫ばれるような時代でしたが、そんなものは信じていなかった。むしろ逆に、こんな時代だからこそ純愛ものは当たると思いました。いわゆる純愛10年周期説ですね」
わが国では『ある愛の詩』の邦題で1971年3月に公開され、春樹は、原題をメインタイトルに残して「ラブ・ストーリィ ある愛の詩」の書名で単行本を刊行。変動相場制になる以前の1ドル=360円の時代なので、前金250ドルは9万円相当になる。ちなみに、この年の大卒初任給は4万6400円だった。
本当に時流を読む勘だけで春樹は「ラブ・ストーリィ」を手掛けたのか? 本作は、家柄の違う女子大生と恋に落ちる主人公の、父との確執と和解がサブプロットなのだ。
「そう。そこが泣けたんです。父と子のラヴロマンスでもある。私の父との関係性を思い浮かべ、泣けました。昭和45年5月21日、両親の問題があって妹は自殺しました。だから俺は決して自殺しないと。しない代わりに冒険をしようと。冒険先で死ぬ分には構わない。しかしどこへ行っても必ず生きて還るんです。するとまた悶々とする。将来どうしようかと。角川書店を辞めて自分で出版社を興そうか……。そういうことばかり考えていた時期でした」
春樹は「ラブ・ストーリィ」に自身を重ね合わせてもいた。表向きは、勝つことと売れることを標榜している。しかし、のちにプロデュースする映画にも、内的テーマを仮託する特質はあてはまるといえるだろう。
もうひとつ触れておくべきことがある。「卒業」からの流れを汲む、短いセンテンスで畳みかけるようなリズムのある簡潔な文体は、本作の翻訳にも生かされている。「ラブ・ストーリィ」の書き出しはこうだ。
どう言ったらいいのだろう、二十五で死んだ女のことを。
彼女は美しく、そのうえ聡明だった。彼女が愛していたもの、それはモーツァルトとバッハ、そしてビートルズ。それにぼく。
訳者の名は、板倉章。これは、閑職に追いやられているうちに翻訳出来るだけの英語力を身に付けた、角川春樹のペンネームではないかと問うと、「そうです。私のペンネームです」との答えが返ってきた。では板倉章には、どんな意味が?
「つまらない答えになりますから、どうでもいいよ(笑)」
いや、ウィキペディアあたりでは「板倉章は一般に筒井正明の筆名とされるが、角川春樹が自分で訳して筆名で出したと語っている」などと曖昧に記述されている。この際ハッキリさせておきたい。単刀直入に女性関係かと問うと、春樹は「そう」と言って相好を崩した。「結婚した相手ですけどね。同棲時代にお金がないので、翻訳料を生活の足しにしていたんです」。印税はといえば「全部その女性に。私は1円も取ってないよ」。さらにこう付け加える。「筒井さんの名を聞いて思い出しましたが、彼を始め3人くらいに下訳はお願いしています。買取りでね。その後、原文に当たって大分手直しし、私の文章にしました」。これが真相のようだ。この他、1冊ごとに春樹はペンネームを変えて、映画のノヴェライゼーションを自ら訳していたという。
「あの翻訳文に影響を受け、のちに小説家を志した高橋三千綱が『九月の空』で芥川賞を獲ったんです。そのとき言えなかったなあ。実は俺が訳していたなんて(笑)」
角川書店発行の「ラブ・ストーリィ ある愛の詩」は、その年のうちに100万部を達成。会社は印税未払いを解消した。巻末の「青春の終わり―あとがきに代えて―」と題した訳者・板倉章の文章には、こんなくだりがある。
「ラブ・ストーリィ」がかくも多くの若者に共感を受けたのは、その愛のあり方ばかりでなく、純粋で単純な生き方、即ち青春そのもののあり方に共鳴したのだ。と同時に、すでに多くの人が政治的、社会的な事柄にもはやうんざりだったというニヒリスティックな一面も否定できない要素になっている。「ラブ・ストーリィ」は多くの人にとって、人間性喪失の時代のメルヘンであったのだ。現代はテンダーネスの時代ではなく、メルヘンの時代だと、わたしは思っている。現代の悲劇がそこにある。
出版権を獲得して、時代の感性に即した文体で翻訳し、そして大衆に訴求する要因を分析した批評で総括することにも抜かりない。マルチな仕掛け人の才気がほとばしる。“政治の季節”が終わりを告げることを予見する70年代初めの角川春樹の文章は、「人間性喪失の時代のメルヘン」というキーワードによって、エンターテインメントを渇望する同時代の人々の心理を見抜いていた。
「ラブ・ストーリィ」ブーム以後、出版業界では、エンターテインメントの海外小説が注目を集めるようになっていった。春樹は、『雨にぬれた舗道』『ナタリーの朝』『クリスマス・ツリー』等々、映画の原作やノヴェライゼーションを次々と当てていたが、やっかみによる揶揄を浴びせられるようにもなる。
「あるとき紀伊國屋書店の文庫リストを見ていると、1位から10位まで全部自分が企画した翻訳ものだったんです。よその出版社からは『角川文庫は“キネマ文庫”だ』とバカにされました。どうせお前たちも、いずれ俺が開拓したものを真似するに決まってると思っていましたが」
当時の角川春樹を語る上で、もうひとつ忘れられない原作との出会いがある。どこの出版社も手を出そうとしないイギリス版プルーフがあった。日本ではまだ無名の作家だったフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」。パリ警察の包囲網を突破し、シャルル・ド・ゴール大統領暗殺を企てる暗殺者ジャッカルと刑事の死闘を描くスリラー小説だ。
「各社ともその気はあったようですが、ド・ゴールが生存している以上、この物語は成立しないというのが、他社の編集者の判断だったんでしょうね。ところが私はビッグコミックで連載が始まって人気が出始めていた劇画『ゴルゴ13』を貪るように読んでいた。プロのスナイパーというのは主人公として面白いと。700ドルで版権を獲りました。その時点では映画化の話はなかったが、必ず売れるという確信はありましたよ」
映画会社のタイアップなき段階。中身はすこぶる面白いが、無名の作家の単行本をいかに売るか。このときも、春樹はある発明をしている。
「中身の分からない映画を売るように売ればいいんだと、方法論を考えたんです。映画は新聞広告に短い映画評を載せますよね。これを書店でやろうじゃないかと。開高健さんや遠藤周作さんにまずゲラを読んで戴き、短いコメントをお願いして実際に書いてもらいました」
本を売る空間を宣伝メディアに換えてしまうという発想に至ったのだ。この頃、石油ショックで頻繁に値段を変えざるを得なくなったという事情から、春樹は荒技も編み出している。
「紙不足で本を重版する度に定価を高くせざるを得なくなった。奥付の定価の上に、改訂価格のシールをペタッと貼ると読者から文句が来る。じゃあ奥付から定価を外しちゃおうと。定価はカヴァーにだけあればいいじゃないかと。今となっては当たり前ですが、初めてだったんです。他社にカラーの文庫カヴァーを真似され、“キネマ文庫”も真似されるようになって、次に始めたことは、奥付から定価を外してカヴァーを換える度に値上げをすることでした」
その後「ジャッカルの日」は、アメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞を受賞し、日本では1973年9月にはフレッド・ジンネマン監督による映画化作品が公開された。
「『ラブ・ストーリィ』のときと同じCICという配給会社でした。『角川さん、お金は払えないけれどプロデュースしてくれないか』と頼まれたので、個人として請け負い、ギャランティを貰わない代わりに、宣伝費の使い方にまで介入して宣伝プロモーションを手伝いましたよ。監督も役者も要らない。原作者を呼んでくれと。『ラブ・ストーリィ』でも原作者のシーガルを呼んだのですが、『ジャッカルの日』でもフォーサイスを呼んでキャンペーンを張りました。映画の方は原作を凌げず、大して当たらなかったけれど、本は売れました。私の目的は本を売ることですから。その後『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』『悪魔の選択』など、フォーサイス作品の版権は次々と押さえること出来ましたね」
単行本「ジャッカルの日」は50万部ほど売れたのち、春樹は異例の速さで文庫化するという行動に出た。
「通常は、単行本の再版というプロセスがある。でも単行本を売りきったなら、すぐ文庫にしちゃえと。文庫も、みんなの記憶に残っているうちに出した方がいいですから。つまり返品が来る前に打ち止めにして、半年後に文庫を出したんですよ。この方法論がまた成功しました」
同じ頃、他社で売れている単行本に関しても、作家の了解だけで片っ端から角川文庫化してしまうという前代未聞の、だが決して違反行為ではないアイデアも実行に移した。
「安岡章太郎さんから『角川君。君のことを泥棒角川と言う者がいるぞ』と言われたんです。『先生、誤解です。うちは強盗角川です』と答えましたよ(笑)。表立った批難などない。売りさえすればいいんですから」
本を売るための飽くなき執念。そのために築き上げた映画界とのパイプ。60年末から70年代前半にかけ、角川春樹は着々と実績を重ね、映画製作参入のタイミングを窺っていた。
* * *
最初の取材を終え、「どう、面白い?」と訊ねられた。もちろん面白すぎるのだが、単純に答えても能がない。こんな主旨の言葉を返した。やがて大河ドラマで現代を描く時代がやってきたら、長時間かけて角川春樹の人生を描くべきであり、ここに残していく言葉は、その“原案”として活かされるものになれば幸いだ――。本稿の題名は何がいいかと考えたとき、瞬時に脳裏に浮かんだのは、角川映画として“未遂”に終わった脚本タイトルの変形「いつかギラギラした日」だった。角川春樹の人生を象徴するともいえるこの題名を提案すると、即座に「いいんじゃないですか」との返事。ややあって「いや、過去形にしないで『いつかギラギラする日』のままでいいよ」との監修が加わった。知る人ぞ知る題名にまつわるエピソードについては、次回触れることになるだろう。(了)
※連載「いつかギラギラする日~角川春樹の映画革命~」
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本コラムは、業界紙記者とはひと味違う鋭い視点で、映画はもちろん、テレビその他をテーマに定期連載していく。また、総合映画情報サイト「映画.com」(
http://eiga.com/)とコラボレーションし、画期的な試みとして2つのウェブサイトでフレキシブルに連載していく。この試みがユーザー(読者)、そしてエンタメ業界、メディアに刺激を与え、業界活性化の一助になることを目指す。
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清水 節(編集者/映画評論家)
1962年東京都生まれ。日大藝術学部映画学科、CM制作会社等を経て、フリーランスで企画・制作・編集・批評。「PREMIERE」「STARLOG」など映画誌を経て、「映画.com」「シネマトゥデイ」「FLIX」ほかウェブ・雑誌などで執筆。「BSフジ 映画大王」「J-WAVE 八木亜希子 東京コンシェルジュ」などを経てテレビ・ラジオ・イベントに出演。海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」の日本上陸を働きかけクリエイティブ・ディレクターを担当。FLIXに「いつかギラギラする日~角川春樹の映画革命~」連載中。
連絡先⇒ shimizu817@aol.com
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