歌謡界で一時代を築いた歌手・島倉千代子さんが8日午後0時30分、肝臓がんのため入院先の都内病院で死去した。75歳だった。
テレビ放送世代の “元祖アイドル” として知られ「東京だョおっ母さん」や「人生いろいろ」などのヒット曲を生んだ島倉さん。筆者が島倉さんで一番の記憶に残っているが93年に初期の乳がんが発見され闘病生活を送ったことである。今でこそ、がんであることを告白する芸能人が多いが、当時、島倉さんの “乳がん告白” は、マスコミばかりではなく日本中を震撼させる芸能ニュースとなった。そんなことから島倉さんを、よく取材したものだった。島倉さんの死去のニュースを聞いて当時のことが懐かしく思い出された――。
島倉さん曰く
「乳がんと聞かされた時は、信じたくない、信じられないという気持ちでしたが、現実を認めなければと自分自身と闘ってきた。幸い、早期発見でもあったし、入院も決まってホッとしています。いちるの望みを持っています。私には歌しかない。歌うために頑張ります」。
気丈に語っていたことが思い出される。
「島倉千代子が都内の病院に極秘入院している」。
第一報が流れたのは93年3月4日のことだった。所属事務所は、その事実を全面否定したが、芸能界は大騒ぎとなった。
ただ、3月1日に東京・渋谷のNHKホールで収録された田端義夫さんと共演したNHK「ふたりのビッグショー」に出演して元気な姿を見せていたことなどが分かって、結局は「実体のない “幽霊情報”」と結論付けられようとしていた。
当時、島倉さんは故・美空ひばりさんの亡き後 “歌謡界の大御所” として「人生いろいろ」などのヒットを飛ばし、CMでは子供たちにまで親しまれていた。一方、プライベートでも、91年に所属事務所「トラスト・ミュージック」の萩原和儀社長との “再婚” が噂されていた。
「今年(93年)の1月に会った時、顔色が優れていなかった。とにかく、辛そうでしたね。『紅白』に出なくても、島倉さんは超売れっ子。仕事疲れではないかと思っていた」。
顔見知りの音楽関係者は、そう言って心配した。
当時の歌謡界はバブル崩壊もあって不況に陥ろうとしていた。しかし、島倉さんクラスの歌手にとっては大きな影響はなく「年末年始は各方面から引っ張りダコ」で「スケジュールは半年先まで入っているぐらいだった」(関係者)。
ところが、ある興行関係者によると島倉さん側から
「3月から3ヶ月間のスケジュールを秘密裏にキャンセルしてきたんですよ」
という情報が…。
当然のことだが、その興行関係者は慌てたという。
「大きなイベントが入ったのかと思ったんですが、歌謡生活40周年は95年ですからね。よっぽどの理由があったのかと。ただ3、4月などの営業は、もうチケットも販売済み。キャンセルなんてしたら、莫大な借金を抱えることになりかねない」。
しかし、そこに飛び込んできたのが「極秘入院」の情報だった。
もっとも事務所側は「入院なんてとんでもない。病気もしていない。50歳を過ぎたので年に1回診断を受ける程度のこと」と断言していた。
それから1週間経った93年3月9日、島倉さんは東京・赤坂の日本コロムビア本社(当時)で緊急記者会見を開き、自身の口から「乳がん」であることを認めた。
90年に恩師の浜口庫之助さん、そして後輩歌手の村上幸子さんをがんで亡くした。憔悴しきった島倉さんは、それを契機に自ら立ち上がり「がん撲滅チャリティー委員会」を創設し、積極的にがん撲滅のためのチャリティー運動に取り組んだ。その島倉さんががんに侵される。そして今回も肝臓がんで亡くなるとは…。ある意味で皮肉な話だろう。
当時、島倉さんが、自らががんであることを告白したのは、早期発見だったことはもちろんだが「がん撲滅運動をしているので、自らの体験を踏まえて、がん撲滅を一生やっていくことが自分に課せられた使命だと思った」と語っていた。
3月22日に東京・中目黒の東京共済病院に入院して患部の切除手術を受けた。
――島倉さんは、92年から年1回、人間ドック入りを習慣化し、がんが発見された93年も1月7日に東京・渋谷のPL東京診療所で定期健康診断を受けるためにドッグ入りした。その際、左胸の乳頭の真下1センチほどの箇所に異常を発見した。
医師からは「良性」と言われたが、心配になり、手術を受けた東京・中目黒の東京共済病院で再検査を受けたという。すると1月19日に「悪性腫瘍の疑いあり」と診断された。
自覚症状は全くなかった。超音波による発見だった。2月25日に同病院で再び検査を行った結果、3月3日になって、担当医だった佐藤雅昭(まさてる)院長から「早期乳がん」であることが宣告されたという。がんの転移はなく「一部を切除する程度」だと診断された。島倉さんは
「私の頭の中では、 “がん” イコール “死” でしたから、がんは物凄く怖いと思っていました。乳がんと聞かされた時は、信じたくない、信じられないという気持ちで、ずっと眠れなくって…。ただ(現実を)認めなければと自分自身と闘ってきた」。
その表情は、能面のようにこわばっていた。
その一方で「(人生)いろいろありますね。やっと借金を返したし、いろいろ終わったのに、がんにはなりたくはなかった」
とホンネも…。
同病院側は「手術は100%大丈夫」と太鼓判を押した。このため、島倉の頭の中は早くもリハビリ→歌手復帰でいっぱいだったという。
「リハビリには病室で踊りの稽古をするわ」
島倉さんは目を輝かせていた。
「歌いたいから負けられない。ファンのためにも早く元気になって歌います」。
手術は約3時間かけて行われ摘出手術は成功だった。左胸乳腺を4分の1と、がん細胞が転移しやすい脇の下のリンパ腺付近10センチを切除した。
摘出手術から6日目の3月30日、島倉さんは55歳の誕生日を病室で迎えた。
病室には前川清や鳥羽一郎、堀内孝雄がお祝いに駆けつけ「ハッピー・バースデー」の大合唱をしたという。
その後の回復力は早く、4月14日には極秘で一時退院し、札幌市の北海道厚生年金会館に向かい、北海道のテレビ局が主催した演歌の祭典「北に歌あり艶歌あり」に出演した。縫合した傷口を痛んだが、看護婦付で挑んだ。
入院から1か月半。4月18日に正式に退院した。NHKでは入院前に収録した「ふたりのビッグショー」(田端義夫と共演)を放送。本格的な復帰は5月19日に鳥羽一郎と前川清が開いた「てのひらの会」と銘打ったコンサート(三重・津市文化会館)だった。
島倉さんは、57年に「逢いたいなァあの人に」で「紅白」初出場。その後、35回出場した。その他「恋しているんだもん」や「ほんきかしら」などのヒット曲を生んだ。99年には紫綬褒章を受章している。来年には芸能生活60周年を迎える予定だった――。
(渡邉裕二)