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北朝鮮の拉致問題の啓発ポスターに津川雅彦!?

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北朝鮮の拉致問題の啓発ポスターに津川雅彦!?

2013年07月05日

 北朝鮮による拉致問題の早期解決を訴えるための新しい啓発ポスターのモデルに俳優・津川雅彦が起用されることになった。

 「親の愛は、世界を動かす。拉致問題は、私達すべての問題です」

 という津川のメッセージが入っているそうだ。

 政府の拉致問題対策本部が製作したらしいが、何で津川をモデルに?と思ったら、津川と朝丘雪路夫妻との間に生まれた長女で女優の真由子が74年に誘拐されたことがあった。「拉致」と「誘拐」では、全く事情は違うのだが、政府は「似たようなもの」とでも思ったのだろうか…。

 いずれにしても「親の気持ちは一緒」というのであろう。津川も「(北朝鮮による拉致の問題が)我が事のように思える。1日も早く解決してほしい」と訴えた。

 それにしても、拉致問題もそうだが、 “真由子誘拐” も事件から40年近くが経っている。

 「そんなこともあったなぁ…」という人もいるかもしれないが、殆どの人が記憶の彼方に違いない。拉致問題はともかく、今回は “真由子誘拐事件” を振り返ってみた。

 「真由子誘拐事件」は衝撃的な事件だったようだ。何と言っても津川雅彦と言ったら芸能一族。叔父はマキノ雅弘監督、叔母は沢村貞子さん、兄は長門裕之さん。津川本人も二枚目から悪役まで幅広い演技をこなしてきた。朝丘雪路も高名な日本画家・伊東深水氏の娘である。その娘が誘拐されたとなれば…。

 真由子は、津川雅彦と朝丘雪路が結婚して10か月――74年3月に生まれた。東京・世田谷区の津川邸は建面積330平方メートル。そこに夫妻と真由子が住んでいたが、他にお手伝いさんや看護婦、運転手など7人も住み込んでいた。さすがにバブリーな暮らしである…。しかも毎晩毎晩さまざまな人が泊まりに来ていたという。とにかくオープンな家だったようだ。戸締りらしい戸締りはほとんどしていなかったと言われる。「朝丘さんの熱狂的なファンが泊まりに来ることもあったほどです」といった噺もあった。

 しかし、このオープンさがアダとなった。

 同年8月15日午前3時48分、家中が寝静まった中、2階の部屋で寝ていた真由子が侵入してきた男に誘拐されたのだ。因みに、夫妻は別の部屋で寝ていたという。真由子と一緒にいた看護婦は57歳のベテランだったが、「時間も時間だったことから、真由子ちゃんが連れ去られる時はウトウトしていた。津川が真由子ちゃんを自分の部屋に連れて行ったものと勘違いしてしまったようです」(芸能関係者)

 真由子は生後5か月。ようやく首が据わりかけたころだ。

 ここで当時の捜査状況を振り返ると、犯人の男は、どうやら、津川夫妻の家が無用心だったことを、全て調査済みだったようだ。勝手口から侵入した犯人は、鍵のかかっていない風呂場のドアから堂々と家の中に入った。階段で2階に上がりドアを開けると、そこに真由子が看護婦と眠っていた。真由子をあやしながら抱き上げ、今度は堂々と玄関から外に出て行った――らしい。

 警視庁は新聞社、テレビ局に対して報道協定を要請した。人質の身の安全を確保するため「報道はもちろん、取材も一切しない」というものだ。誘拐事件での報道協定は今でこそ慣例となっているが、実は、この事件で初めて「報道協定」というのが実行されたのだと言う。

 犯人から電話があったのは、誘拐直後の午前4時ごろだった。「500万円を第一勧業銀行(現みずほ銀行)に振り込め」と身代金要求があった。

 実は、これもだが、事件が起こる前年の73年1月、第一勧業銀行はキャッシュカードを初めて導入したばかりだった。犯人は事件の1か月前に偽名を使って東京・新宿支店で口座を開き、キャッシュカードを使って千住、西新橋、八王子、池袋の4支店で現金を引き出す “リハーサル” を繰り返していたという。「どこでも20秒足らずで金が出てくる。これなら大丈夫だ」と自信を深めたらしい。

 しかし、世の中、そう甘くない。逮捕のキッカケになったのは津川に電話をかけた時に「500万円はすぐに用意出来ない」と言われたことだった。犯人男は「だったら、あすの12時(正午)までに振り込め」と指示したという。このため時間に余裕が出来た。
第一勧銀は、警視庁の要請に、わずか1日足らずで我が国初の「逆探知機プログラム」を開発。その結果、指定された口座に振り込まれた金を犯人がどの銀行のATMで引き出しているかを逆探知出来たのだと言う。

 16日午後0時17分、犯人は東京駅南口の支店でキャッシュカードを使って現金を引き出しているところを逆探知され逮捕された。誘拐から32時間後の逮捕劇だった。

 ところが…。犯人は逮捕されたものの真由子の所在を自供しない。

 「どうせオレは死刑になるから」。

 と言ったまま、真由子の居場所も安否も口を閉ざしてしまったというのだ。

 しかし、これまた指紋から犯人の前科が分かり、自宅を突き止め真由子は無事保護された。犯人逮捕から8時間が過ぎていた――。

 事件翌日の16日午後11時過ぎ、津川と朝丘は青山の山王病院で無事、真由子と対面した。

 津川は無精ヒゲも剃らず、目を真っ赤に腫らし、刑事から真由子を受け取ると、ひしと抱き締めた。その隣で、朝丘は涙で濡れた目をぬぐいもせず、津川の手を握り締めていた。当時、現場で取材していたベテラン記者は、津川夫妻と真由子の劇的対面の瞬間を今でも鮮明に記憶していた。

 「山王病院のロビーは報道陣であふれかえって騒然としていた。真由子を乗せたパトカーが間もなく病院に到着するという情報が流れると、ロビーを占領していた報道陣が玄関からロビーの奥にいる津川夫妻のところまで捜査員が通れるよう道をあけた。真由子を抱いた捜査員がロビーに入って来て、フラッシュの嵐の中、津川夫妻のところへ向かった。まるで映画のような感動的なシーンでした。全国紙の中には病院近くのホテルに部屋を取り、そこを前線基地にして記者8人を動員する社もありました。それほど当時としては大事件だったんです」。

 それにしても事件が起こった時、まだ生後5ヶ月の真由子が、夫妻とは別の部屋で寝ていたというのも妙な話ではないか。普通、生後5ヶ月ぐらいの愛娘だったら一緒にいるはずだが…。

 事件について津川は後に「新潮45」(00年8月号)のインタビューでこう振り返っている。

 「僕自身、母親のオッパイを触りながら小学6年まで添い寝してもらって、乳離れができず、父母の夫婦生活にも相当支障をきたしただろう反省の念があった。また、役者業の深夜に至る不規則な生活に赤ん坊まで巻き込みたくなかった。ただし1人で寝かせていたわけではない。病院からの看護婦さんにずっと同室してもらっていた」。

 その一方で「あの事件が、人生の転機になった。役者だけでなく、父親の視点を持つことができ、世界が何倍にも広がった」と話していた。

 事件後、津川は「子育て」に真剣に取り組むが、つきっきりで遊んでやることは出来ない。で、「自分に匹敵する良質な玩具で遊びを充実させることを思いついた」ということから、玩具屋「グランパパ」(偉大な父)を設立した。スコットランドから城を持ってきた「サンタの国」構想もその延長線上にあったという。

 事件の裏にはさまざまドラマがあるものだ…。

 因みに、今回の「拉致問題の早期解決」を訴える啓発ポスターだが、15万枚以上を刷って全国の自治体や駅、空港などの公共施設に配るというのだが…。

(渡邉裕二)

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