「平成のヒット曲」を夢見たが…尾崎紀世彦さんについて。
2012年06月06日
「アルバムのレコーディングを予定していたのに…」
小松プロモーションの小松吉雄社長は、そう言って肩の力を落とした。
小松社長は、あの大ヒット曲「また逢う日まで」で“日本レコード大賞”と“日本歌謡大賞”を“W受賞”した往年の歌手・尾崎紀世彦さん(おざき きよひこ)さんと二人三脚で頑張ってきた人である。
尾崎さんは5月31日、東京都内の病院で亡くなった。69歳だった。死因は肝臓がんだというが、既に肺などに転移していたという。2年にも及ぶ闘病生活の末に帰らぬ人となった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
尾崎さんは昨年5月に予定されていた公演を突然にキャンセル。その後、連絡が途絶えていたことから「失踪」と大騒ぎになった。「東京・世田谷にある自宅も生活していた形跡がなく、所属事務所とも連絡が取れない状態」と言われた。しかし、実際には都内の病院に入院していた。まさか、それが肝臓がんだったとは…。
その尾崎さんと音楽面で長年に亘って連れ添ってきたのが小松プロモーションの小松吉雄社長だった。数年前までは尾崎さんの所属事務所の社長でもあった。その小松社長が言う。
「実は今年の春に最新アルバムのレコーディングを準備していたんです。体調を見ながら…と言っていただけにショックです」。
言うまでもなく、小松社長は、尾崎がフォノグラム(現ユニバーサルミュージック)、ビクターなどレコード会社を転々と移った時も一緒に行動してきた。「また逢う日まで」も小松社長の下で大ヒットした。夢をもう一度じゃないが、小松社長は尾崎さんで“平成のヒット曲”を夢見ていた。
「ミュージシャンの為末照正(ためすえ・てるまさ)さんが書き下ろした『羅針盤』という曲があったんです。その曲は新潟・長岡の日本酒『吉野川』のCMとして10年以上に亘って使われていたんですが、この曲をCM曲として歌いCMにも出演していたのが尾崎だったんですよ。しかし、CDとしてレコーディングしていなかった。そういったことからも今回、新しいアルバムに入れたい…と言って、為末さんにも言っていたんです。為末さんも喜んでくれていたんですけど…」。
既に、収録曲は全て決定しレコーディングのために音源は録り「あとは、尾崎さんの体調を見て歌入れだけの状態になっていた」と言う。
しかし…。為末さんも今年2月にがんで亡くなってしまった。小松社長は「二重のショックです。尾崎のアルバムを出すことが為末さんの供養にもなると思っていたんですけど、まさか、尾崎まで逝くとは…」。
尾崎さんは神奈川県茅ヶ崎市の出身。父親がイギリス人と日本人のハーフで、母親が日本人のクォーター。「もみ上げ」がトレードマークで、ダイナミックなボーカルが大きな魅力だった。
70年に「別れの夜明け」でソロ・デビューしたが、その直後に6重衝突という交通事故に巻き込まれ、4ヶ月に及ぶ入院生活を経験したが、2枚目のシングル「また逢う日まで」が大ヒット。一躍トップ・シンガーに躍り出た。一般的には「1発屋」的なイメージがあるが、楽曲の作品力と同時に圧倒的な歌唱力で40年経った今でも歌い継がれてきた。しかも、他にも尾崎さんは「さよならをもう一度」「ゴッドファーザー(愛のテーマ)」「雪が降る」など代表曲は持っていた。7年前の05年には松竹映画「釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪」にも出演していた。3年前にはユニバーサルミュージックから「ザ・プレミアムベスト 尾崎紀世彦」というベスト・アルバムも出していた。
いずれにしても、ここ数年は70年代、80年代のヒット曲がブームになっている。そう言った中で尾崎さんにも注目が集まっていただけに残念である。
(渡邉裕二)