もう、25年も経ったのか…というのが率直な実感だ。
“ユッコ” の愛称で人気だったアイドルの岡田有希子さん(本名・佐藤佳代)が自殺してから25年という歳月が経った。
86年4月8日午後12時15分のことだった。当時18歳の岡田さんは東京・四谷の所属事務所「サンミュージック」のビル7階(当時)から飛び降り自殺をした。
実にショッキングな事件だった。
ビル屋上には約1.5mの鉄柵がある。身長158cmだった岡田さんは、この鉄柵を何らかの形でよじ登り、30m下の路上に飛び降りたのだ。即死だった――。
岡田さんが自殺を図った時、僕は東京・青山1丁目のワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)でインタビュー取材のため柳ジョージに会っていた。そこに当時の上司から電話がかかってきた。
「岡田有希子が飛び降りたみたいだぞ。終わったら行ってみてくれ」
僕は、柳の取材が終わると、すぐにタクシーで四谷四丁目のサンミュージックに向かった。
すでに四丁目交差点の事務所周辺には各局のテレビ中継車が並び、事務所前から3階にあった会議室は100人を超す記者でゴッタ返していた。事務所関係はみんな青ざめた表情で対応していた。その時のことは、今も脳裏に焼き付いている。
言うまでもなく岡田さんは、人気絶頂のアイドルだった。
岡田さんで、すぐに思い出すのは頭がよかったことだ。偏差値は芸能界でもトップクラスだったかもしれない。出身の愛知県では2番、3番を争う成績だったと言われていた。「何で、芸能界に…」と思ったほどである。それだけに彼女はプライドも高く負けず嫌いだったのかもしれない。
その岡田さんは新曲を出したばかりだった。
新曲「くちびるNetwork」は、事務所の先輩だった松田聖子が作詞したもの。しかも、その新曲はオリコン総合チャートで断トツの1位を獲得していた。
まさにトップ・アイドルの自殺だったわけだ。
当時のことを振り返ってみた。
彼女は、デビュー(84年4月)以来、東京・成城にある社長の家に同居していたが、3月に高校を卒業したことで1人暮らしをはじめたばかりだった。4月4日に1人暮らしをするマンションに越してきたばかりだった。つまり、1人暮らしを始めて僅か4日後の痛ましい事件だったことになる。
しかも、さらにショッキングだったのは、岡田さんの飛び降りる瞬間を目撃してしまったのが、奇しくも当時、彼女のマネジャーだった溝口伸朗氏(故人)だった。溝口氏は、彼女の自殺未遂を聞き慌てて事務所に駆けつけていた途中だった。落ちる瞬間は、人間というより「何か物が落ちるような感じで、まさか有希子だとは夢にも思わなかった」と溝口氏は語っていた。
その後、岡田さんの自殺は思わぬ方向に発展した。
事務所前には全国から連日、ファンが集まり連日、異様な雰囲気となっていた。しかも、岡田さんの自殺をキッカケに、ファンの後追い自殺が相次いだのだ。これは当時、大きな社会問題となった。
「(岡田さんが自殺した4月)10代の少年少女の自殺は125人にも上った」
と当時、厚生労働省は発表している。
このことから、岡田さんの愛称をとって「ユッコ・シンドローム」という新語まで生まれた。
亡くなってから25年と言う区切りの今年。岡田さんの出身地・愛知県愛西市にある墓前には有希子ファンが全国から集まり法要が行われたという。
(渡邉裕二)